食ってしまった飯を吐き出しても、大した意味はない件
昔、ホットドックプレスという雑誌に作家の北方謙三さんが、「試みの地平線」というミニコラムとお悩み相談コーナーを持っていた。
悩みを抱える若者から質問を受けて、北方先生が大概「ソープへ行け!」と回答するというのが定番で、そのお約束がウケていた。
当時、アンニョイな高校生だったワタクシ少年も、先生のメッセージを読みながらオトコを磨いたものだ。今でもよく覚えているコラムに五月病の悩みに対して、「食ってしまった飯」という話があるのだが。
アンニョイな土曜日。サラリーマン時代の夢をみて、どん底の気分で起きる。もう6月だというのに持病の五月病を発症して、メンタルは最悪な状態だ。どうも、今の時期は苦手で仕方ない。
といっても、昔に比べれば重症化しなくなったような気はする。ここ10年くらいどん底で生きて少しは状況に慣れたようだ。
落ち込むことに慣れたら、落ち込んでいる状況自体に悩むことがなくなるのがいいところだ。そんなワケでいつものように娘氏と公園に遊びにいくことにした。
先日、公園で娘氏のお友達がエスボードという2輪のスケボーで遊んでいて、目撃した娘氏に激しくおねだりされ買ってしまったニューマシン。
「南極十四号」と名付けたスケボーを持って、今日から練習を開始するのだ。ちなみにお値段3,600円也。
子供の学習能力はさすがに高く、手を持って支えてあげるとスグにスイスイ進めるようになる。娘氏の休憩中にワタクシも乗ってみるが、バランスが取れなくてぜんぜん立ってらんない。
娘氏は次の段階に進んで、支えなしで1人で乗る練習を始める。が、さっそく派手にコケてお尻を強打してしまい、手を持っておけと怒り狂うようになった。どうも恐怖が先にきてしまうようだ。
「ビビらないでがんばれ!」とハッパをかけてみたものの、しばらくすると、娘氏はやる気を失って練習すらやめてしまった。
思い悩んだワタクシは、尊敬するD・カーネギー先生の名著「人を動かす」に書かれていた、子供の偏食に悩む親の話を思い出した。
世間の親の例にもれず、彼は妻といっしょになって小言ばかりいっていた。
「お母さんは、坊やにこれを食べてもらいたいんだよ」。
「お父さんはね、坊やがからだの立派な人間になってもらいたいんだよ」。
こういわれて、この子が両親の願いを聞き入れたとすれば、それこそ不思議だ。
「人を動かす」66ページより引用
なるほど。つまりは、自分の希望を子供に伝えたところで言うことを聞いてもらうのは不可能だと言うこと。
というわけで方針を変更し、父が練習することにした。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」。一番最初が抜けていたのだ。
だが、腹の出た中年に2輪のスケボーはキツイ課題である。父として窮地に陥ったワタクシは、北方先生の教えを持ち出すことにした。
北方先生は五月病に悩む若者に、どうすればいいか考えるより、こうすればいい!と考えろと説く。
つまりは前を向いて実践あるのみということ。コケるかもしれないとか考えると途端に上手くいかなくなる。過去の失敗やらは所詮、「食ってしまった飯」 。吐き出しても大した意味はないんだよと。
ワタクシは例えコケて前歯を折ったところで、恥の多い人生にまた一つ失敗が増えるだけでダメージは少ないと決意し、スケボーに乗ることにした。
予定ではワタクシが派手にコケて、爆笑した娘氏がやる気を取り戻すハズだったのだが、ここで意外なことが起こる。
北方先生の教えが効いたのか、なぜかワタクシのスケボーがスイスイ進む。両手でピースをしながら娘氏の前を余裕で通り過ぎると、娘氏が余計にやる気を失って練習をやめてしまった。
そんなこんなで、いじけた娘氏とボール遊びをして、ノラ猫を追いかけ回して帰宅。練習はまたの機会となった。娘氏はまたゆっくり練習すればいいと思う。
とにかく、大切なのはスケボーでも人生でもビビらず前を向いて立つこと。いつまでもウダウダ五月病になっていてもしょうがないので、ボチボチ立ち上がろうと思う今日この頃である。
北方センセイ、ソープに行きたいです。