キャッチボール
就職を機に上京したワタクシは、東京の外れにある工場に研修生としてやって来た。配属されたのは、納入された部品を検査する、受入検査と呼ばれる職場だった。
ネジやボルト、ワッシャーといった細々した部品を箱から出して、大きさや形、数量、傷がないかなど確認していく地味な仕事だった。
カンタンな仕事だったが、一日8時間、延々とネジを数えていると単純作業に嫌気が差してくる。初めて人は立ちながら寝られることを知ったのは、この頃だった。
職場は、ベテランのオジサン連中と20代の先輩が2人いた。その1人、ナスさんという先輩がワタクシの指導員となって面倒を見てくれていた。
仕事はカンタンなので、大して教えてもらうこともなかったが、昼休みは必ず工場の空き地でキャッチボールをさせられた。
ただのヒマつぶしのキャッチボールだったが、ナスさんは真剣だった。ワタクシを座らせると大きなフォームで振りかぶって、速球を投げ込んで来る。
フォームは豪快だったが、ナスさんは特に野球経験があったワケではなく、球速は大したことがなかった。
速球に飽きたら、”次はカーブ”と手首をクイクイ振って合図してくる。自称カーブを投げ込むと、「今すげぇー曲がったよね?」と必死に確認してくるが、ほとんど曲がっていなかった。
だが、一応ワタクシは「いい球来てます!」とだけ返しておいた。
ある日、ナスさんが「ガムテープを貰って来てくれない?」とテープがなくなってただの輪っかになったガムテを渡して来た。
「工場のそこのとこをまっすぐ行って、右手の方にコレを渡したらガムテをくれるオジサンがいるから。」とカンタンに指示されて、言われた通りに歩いて行った。
教えられた場所には、工場の消耗品らしき物が積まれ、オジサンが一人立っていた。ワタクシは何気なく「すみません、ガムテープを貰いに来たのですが。」とオジサンに話しかけた。
が、聞こえているハズなのに、オジサンはワタクシを完全無視している。もう一度大きな声で「すみませーん!!」と発した直後、「テメェ、コノヤロー!!」とオジサンは激高した。
何かマズイことをしてしまったのだろうか?ワタクシはパニックになって、ダッシュで職場に逃げ帰った。
ナスさんのところに戻って来て、あったことを話すと、ケラケラ笑いながら「そうか、そうか、じゃあ一緒に行こうか?」と、もう一度オジサンの所に向かうことになった。
ナスさんはオジサンの所にやって来ると、背筋をピンと張って「受入職場、ナスです!ガムテープ1個補充に参りました!」と声を張り上げて叫んだ。
オジサンは無言のまま、ガムテを棚から出して輪っかと交換してくれた。
後で知ることになるのだが、このオジサンは異常に気難しい人で、誰であろうとキレられる隙を見せたらキレる人だった。
いつの頃からか、抜け殻を渡さないと、新しいのをくれなくなったので、工場でガムテの芯は宝物のように扱われていた。
ワケがわからないのだが、オジサンが異常に厳しいおかげで工場の消耗品の減りが少なくなったらしく、会社はオジサンを重宝していたらしい。
そんな貴重な経験をしながら数か月が経ち、研修が終わろうとしていた頃、ナスさんが送別会をしてくれるということになった。
ナスさんが住んでいた福生の駅前で待ち合わせると、彼がハマっているという店に連れて行ってくれるという。
飯も食わずにやってきたのは、一軒の寂れたロシアパブだった。慣れた感じで店に入ると金髪のスラッと背の高い、いかにもロシア美人といった感じのオネーチャンが迎えてくれた。
彼女は胸に”みーしゃ”とひらがなで書かれた名札をつけていた。ナスさんは職場で見せたことのないような笑顔で、自分より背の高いみーしゃの手を握っていた。ワタクシは一瞬で彼がハマっている理由がわかった。
みーしゃは日本に来たばかりらしく日本語がほとんどしゃべれなかった。ナスさんも英語もロシア語も話せないので、ひたすら身振り手振りでみーしゃとコミュニケーションを取ろうとしていた。
が、みーしゃにはさっぱり伝わっていないらしく、彼女はひたすらグラスにウォッカを注いで彼を潰そうとしていた。
小一時間くらいすると、みーしゃはおもむろに席を立ち奥に消えた。急に店内が真っ暗になりムーディーな音楽が流れるとショータイムが始まった。
スケスケの衣装に着替え怪しいスポットライトを浴びたみーしゃは美しかった。彼女の胸元から刹那的にこぼれるB地区、それはまるでそそり立つウラル山脈のようだった。
ショーが終わってみーしゃが席に戻ってきた頃には、ナスさんはできあがってしまってへべれけ状態となっていた。
しょうがないので、みーしゃとワタクシは二人でおしゃべりをした。ダンスで汗ばんでなんともいえない甘い香りを発しながらみーしゃは色々な話をしてくれた。
ウクライナ出身で、国に中学生の娘と旦那を残して出稼ぎに来ていること。ショーの前に氷を当てて、B地区を立たせていること。
日本のオジサンはB地区をつまもうとするからマジでウザイ。チップもくれない。が、悪い人はいない。ナスサンは一体ナニをしにこの店に来ているのか?
ワタクシが英語ができるので、嬉しそうにほとんど本音のトークをしてくれた。ワタクシは、彼は君に惚れているんだよ、とは言わなかった。
いい時間になったので、意識不明のナスさんを起こして帰ろうとしていると、「みーしゃにオレのチ〇ポはデカいと伝えてくれ!」とナスさんが懇願してきた。寝ながらワタクシとみーしゃが英語で話しているのを聞いていたらしい。
若干メンドクサクなったのでワタクシはそのまま、”His di〇k is so big”とストレートに訳してみーしゃに伝えてあげた。
その瞬間、ナスさんは直立し「サムライサイズ!!」とガムテープを交換してもらう時よりもハッキリと力強く叫んだ。みーしゃは顔を真っ赤にして両手で覆った。
研修の最終日、いつものように昼休みのキャッチボールを終えると、ナスさんはいつも使っていたボールにマジックで「頑張れよ!」と汚い字で書いてプレゼントしてくれた。
そのボールは10年以上経った今でも、大切にしまってある。時折、お昼時になると無性にキャッチボールがしたくなる時がある。
受け取ったボールを誰かに渡さないといけない、そんな気がするからだ。