たいへんはたのしい件
娘氏がまだ2歳だった頃のある寒い冬の日。夜中に高熱を出した娘氏が、突然、ゲロを吐いて泣き叫び、どうしたらいいのかわからず夫婦で頭を抱えたことがあった。
氷枕をしたり解熱の座薬を入れたりして様子を見たものの、一向に40度を超える熱が下がらず何度も吐く娘氏。
夜中の12時を回って万策尽きて娘氏を抱えて車に乗せ、救急病院に担ぎ込んで診てもらい大事には至らなかったんだけど、その時は娘氏が死んでしまうのではないかと不安になったもんである。
アンニョイな午後、無事に6歳にまで育った娘氏が熱を出す。世間は連休の真っただ中なので病院にも連れて行けず、とりあえず様子見を決め込む。
が、予想通りグングン上がる体温。40度の壁を軽く乗り越え41度に迫ろうとしているところで、洗練された父として決断を下す時が来た。
娘を脅かす正体不明の敵に冷えピタで守りに出るか、反転攻勢に転じてイナビル砲を撃つか。経験を積んだ父は、愛車を救急病院に急行させることにした。
夕方に到着したものの、救急病院はすでに野戦病院と化し、待ち合いの長椅子は患者で微塵の隙間もない。溢れた人達が非常階段で横になるという終末的な状況。
いい大人達がへたり込んでしまっているので、こりゃみんなインフルエンザだわと一瞬で理解する。というか、待合室の空気が淀み切っていて、目視でウイルスが見えるんじゃないかというレヴェル。
「ただいまの待ち時間 3時間」
の残念なお知らせを確認して、駐車場の車の中で腰を据えて待つことにした。ちなみに一緒に来た嫁氏は、待合室で同じ状況のママ友を発見しておしゃべりに夢中になっていたので放置しておいた。
インフルエンザウイルスが蔓延していると思われる狭い車内で、愛する我が子と2人きり。熱にうなされる娘氏を心配しながらも、なんだか昔を思い出して父は楽しい気分でいた。
思えば熱を出してばかりだった娘氏も、もうすぐランドセルを背負って小学校に行くようになる。どんどん手がかからなくなっていくんだなと。
いとしさと切なさと心強さと。まだあと4、5回くらいはこんなこともあっていいかなと、そんなことを思った。
そんなこんなで、やっとのことで診察に呼ばれてインフルエンザの太鼓判を押されイナビルをもらい、会計を済ませて家に辿りついた頃には時計の針は22時を回っていた。
そして、翌日の夕方には順調にワタクシの体の節々が痛み始め、深夜には体温が40度を超える。次の日、嫁が行動不能になり、その次の日には息子氏が。そして、完落ちかと思われた最後の砦、BBA(姑)は持ち前の性格の悪さでインフルに打ち勝ちピンピンしていた。
本人曰く、40年間続けている梅干し健康法が無敵らしい。知らんけど。
こうして1週間が過ぎ、我が家のパンデミック戦争は終息へ向かおうとしている。重傷者4名を出したが、たまには大変な思いをするのも悪くない。たいへんはたのしいもんなのだ。
尊敬するD・カーネギー先生の名著「道は開ける」にもこんな記述がある。
「自分の荷物がどんなに重くても、日暮れまでなら、だれでも運ぶことができる。自分の仕事がどんなにつらくても、一日なら、だれでもできる。太陽が没するまでなら、だれでも快活に、辛抱強く、親切に、貞淑に生きられる。そして、これこそが人生の秘訣そのものだ」。
「道は開ける」34ページより引用
ここで先生が何を言いたかったのかと言うと、今日は辛い昨日の続きではなく、まったく新しい一日の始まりなんだよと。そんな気持ちで毎日生きると楽しいよということ。
病院から家に着いて、眠っている娘氏を久しぶりに車から抱き抱えて降ろそうとしたのだけれど、いつの間にか大きくなってしまっていて危うく落っことしそうになった。
それでもなんだか楽しくて、父は我が子を抱き上げ、気合いのうめき声をあげながら少し笑った。