メープルシロップ風味のカツドーン
「今日はガッツリ系のが食べたい」
子供を産んで10キロほど太り、かわいくなった嫁がおねだりするのでカツ丼を作ることにした。ちなみに愛する嫁は料理が下手なので我が家では旦那であるワタクシが夕食を担当している。
近所のスーパーで激安のカナダ産豚肉を買ってきて、人気ユーチューバーのマネをして塩コショウをフリフリ。少し寝かせる間ができたので、キッチンの小窓から空を眺めていると、豚肉の故郷のことを思い出した。
語学留学でワタクシがカナダに渡ったのは大学生の頃だった。
住所だけを頼りにホームステイ先に辿りつくと、いかにも北米といった感じの大きな白い一戸建てから、想像していた通りのマリリンという金髪のホストマザーが笑顔で迎えてくれた。
さっそく部屋に案内されると、窓のない3畳ほどの地下室にベッドと簡易の机が置かれているだけの監獄のような部屋だった。
ワタクシは、まぁこんなもんだろくらいに思っていたのだが、たまにいるビジネスホストファミリーの最悪なパターンの家だったと後々、知ることになる。
というのも、他にもホームステイに来ていた学生が3人ほどいたのだが、白人は2階のフカフカのベッドに窓のある広い部屋を使っていて、ワタクシと2週間後くらいにやってきた韓国人のニーチャンは地下の監獄だった。
マリリンは言ってしまえば人種差別を特にそれと気にせずしているタイプの人間だったので、悪意がないのは救いだった。
ところが、大きな問題が1つだけあった。
とにかく飯がマズいというよりも、腐っていた。マリリンは食費を浮かせるために、料理に賞味期限の切れた缶詰をどこからともなく仕入れてきて使っていた。
最初は気付かなかったが、日に日に腹がゆるくなっていくのでオカシイと思ったワタクシが、地下の倉庫に大量にストックされた期限切れの缶詰の山を発見して、すべてを理解するのに1週間を要した。以来、ワタクシは出された飯にほとんど手を付けなくなった。
だが、とにかく腹が減る。冷蔵庫に入っているミルクも腐っている。しょうがないので、語学学校の近所に発見した日本食レストランに通うようになった。
そのレストランは中国人が経営していて、謎の黄色いソースがかかった寿司、衣だらけの謎肉の天ぷらなど、あやしい日本食を取り揃えていた。
ワタクシは最初からハズレを覚悟の上で、空腹に任せて大正義カツドーンを注文してみることにした。
出てきたものは草履みたいなカツに、メープルシロップが入っているかのような甘ったるいダシが、カツにもゴハンにもヒタヒタに染み込んでいて、意外にイケる一品だった。ミツバの代わりにバジルが乗っていることなど大した問題ではなかった。
たぶんゆるんだ空腹のお腹に、ヘタクソに絡んだ卵と甘いカツがやさしく感じたのだろう。カナダ人サイズのボリューム感も飢えていたワタクシには最高だった。
それから毎日のようにこの店に通った。まともに食えるのは1日に1杯のカツ丼だけなのだ。他のメニューには目もくれず、いや、正確にはなんか酸っぱいうどんに浮気して失敗したような気はするが、ワタクシのカツ丼生活は始まることになった。
憧れた異国での生活は、学校に行ってカツ丼を食べて空腹に耐えるというワケのわからないパターンとなった。だが、とにかく空腹に流し込むカツ丼が恋しくて、それだけが楽しみになっていた。
そんなこんなでなんとか1か月の囚人生活をカツ丼で乗り切り、出所する頃には体重が10キロほど減っていた。
それからインド系移民の老夫婦のホームステイ先に移住し、ふかふかのベッドを手に入れることになるだが、今度は毎日激辛カレーで肛門が大変なことになるとは夢にも思わなかった。
スパイスの効いた生活は辛かったが、体重が激減したおかげでシュッとしたワタクシは、語学学校で女の子によくモテるようになった。
異国でしか味わえない甘いスイーツのような経験もたくさんした。人生が与える辛い試練は、後に甘いご褒美となって返ってくると信じるようになった。
そして、元気が出ない時は腹いっぱいカツ丼を食べれば、大概のことはなんとかなると思わせてくれる。カツ丼はいつでも大正義なのだ。
「ゴハンできたよー」と発したアンニョイな午後。少し酸味の効いた嫁と甘いカツ丼の乗った食卓を囲んでワタクシは満ち足りている。辛味の効いた姑もいるが、たぶん何かの前フリなのだろう。
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特別リレーエッセイ企画
規定:1800字以内
選考委員:ホビヲ(id:hobiwo)
後援:カマンベール出版
副賞:絵本「ピーマン」シリーズ3部作
※最優秀作品は、カマンベール出版より書籍化される場合があります。
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次回はみどりの小野さん(id:yutoma233)による「会津妻のビーフストロング金剛」です。