相模大野
相模大野のアパートに引っ越した日、彼女は新居の白い壁に大きな世界地図を貼った。これからどこかに旅行したらそこにピンを刺すのだと。
この地図がピンでいっぱいになるくらい2人でたくさん旅行に行こうと、彼女は楽しそうに笑った。
就職氷河期を生き残り、東京のブラック企業に就職したワタクシは会社の独身寮に放り込まれた。風呂とトイレは共同で4畳半の部屋のドアが、長い廊下に延々と続いている監獄のような所だった。
同期の1人が夜中に奇声をあげてその廊下を走り、病院送りになったのは入社してから1年も経たない頃だった。
その当時付き合っていた彼女は、湘南にあった某インターナショナルビジネスマシーンズ、通称IBMで働き始め、同じように女子寮に入ってしまったので、気軽にチュッチュできなくなってしまった。
当初は、お互いの寮に忍び込んだりしていたのだが、普通にトイレにも行けないのに嫌気がさして、鴬谷のラブホを愛の巣代わりにするようになった。
当時、22時を過ぎてから入らないと、どのラブホもお泊りするのに追加料金が発生したのだが、必死に探して見つけたそのラブホは20時から追加料金なしでお泊りができた。
というのも、漫☆画太郎のババアみたいなのが一人でやっているラブホで、受付でババアと顔を合わせてお金を払って鍵をもらうというプレイに耐えなきゃいけない所だった。そんな試練を性欲ではねのけて、クソボロいラブホで滅茶苦茶セックスした。
毎週末ラブホでお泊りしてても金がかかるだけだったので、彼女が寮を出てアパートを借りることになったのは、鴬谷で半年ほどセックスした後のことだった。
新宿から急行に乗り30分、江ノ島に行く若者達がキャピキャピ言いながら乗り換える。そんな相模大野の駅はいつもにぎわっていた。
駅から歩いて15分ほどの何の変哲もないアパートでの、週末だけのラブリーな生活が始まったのは初秋のことだった。
彼女と相模大野から電車に乗り江ノ島に遊びに行ったり、新宿へいつものように買い物に出たり、なんでも揃う駅前でお茶をしたりしていたのだが、楽しい思い出がほとんど残っていない。
お互いに社会人になったばかりで忙しく、すれ違いが多くなっていたのだろう。なぜか覚えているのは、とにかく用事がないのに電車が止まる登戸が大嫌いだったことと、駅からアパートへ向かう暗い道であまり会話がなかったこと。
時が経つにつれ相模大野のアパートに行かない週末も多くなった。ブラック企業で土日も駆り出されるようになり、ワタクシの体力も削られていた。が、抗えない何かに抵抗するかのように部屋に貼った世界地図に2個3個、ピンを刺した。
その日が訪れたのは、相模大野にやってきて1年が過ぎようとしていた頃だった。なんとなくわかっていたので、寮から後輩のヤマダ君を連れ出し、とにかく一緒に来いと車に乗せた。
駅前までやってくるとヤマダ君を降ろして1万円を渡し、1、2時間くらいパチンコをしておくように言った。
そのままワタクシはアパートに向かい、少し湿っぽい話をしてから荷物をまとめ、フラフラになりながらヤマダ君を迎えに行った。
パチンコ屋に2時間ほど放置していたヤマダ君は、スロットルパン3世で3万円近く負けていた。早くこの地からサヨナラしたいワタクシの想いとは裏腹に、ヤマダ君はもうちょっと突っ込んだら取り返せるからと、身銭を切ってスロットを回し続けた。
結局、ヤマダ君は閉店近くまで粘り、10万円ほど負けてモヌケの殻となり崩れ果てた。失恋で放心状態のワタクシは、その姿を隣で座りながらずっと眺めていた。
日もとっぷり暮れた相模大野からモヌケの殻の2人が出発し、途中のすき家で牛丼を食べて寮に帰ったのは深夜だった。ヤマダ君は半泣きで牛丼を旨そうに食っていた。
アパートのドアを閉める時、最後に視界に入った世界地図からピンはなくなっていた。すき家のトイレの壁にワタクシは、少しばかりの心残りと一緒にそれを刺しておいた。
以来、相模大野にただの1度も立ち寄ることはなかった。なんでもある便利でにぎやかな駅は、ワタクシにとってはなんにもない駅になった。
ただ、すき家で食べる牛丼は懐かしい味がして今でも案外好きだ。
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